倉敷バイブル 歴史

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幕府直轄地(天領)

江戸時代に幕府直轄地「天領(てんりょう)」として栄えた倉敷。その中心である標高36mの鶴形山(つるがたやま)の周辺一帯は、阿知潟(あちがた)と呼ばれる浅い海であったが、高梁川の沖積作用による堆積が進み、天正12年(1584)宇喜多秀家(うきたひでいえ)による潮止め工事が大々的に行われ、新田が開発された。その後、慶長5年(1600)に備中国奉行領となり、翌年の慶長6年(1601)には検地が行われた。

倉敷代官所跡 案内板

倉敷は備中松山藩の玄関港として上方への物資の輸送中継地となった。慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際、備中代官の小堀政一(こぼりまさかず)(小堀遠州)(えんしゅう)が倉敷から大量の兵糧米を送ったことが天領への道を開いた。寛永19年(1642)には 幕府直轄地のいわゆる天領として幕府の支配下におかれ、物資輸送の集散地として、また、急速に開発が進んだ周辺新田地帯の中心地として繁栄するようになった。天領地になった倉敷には代官所が設けられた。以来、明治維新にいたる200余年間、倉敷代官所は備中(倉敷)、美作(久世)、讃岐(塩飽諸島)の直轄領を支配する枢要となった。現在、倉敷川にほど近い倉敷アイビースクエアの敷地の一角に、倉敷代官所跡を示す案内板が立っている。倉敷川沿いには出船入船でにぎわった往時を物語る雁木(がんぎ)や常夜灯が昔のままに残されている。

2007/08/01 | 倉敷 | Comments [0]

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